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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第3章 雨の日の出来事

「八重の父御は素晴らしい思想家だったのだなぁ。私の父上もそのようなことを仰せられたことはないぞ」
「思想家だなぞと、たいそうなものではございませんわ。ただの商人(あきんど)にございます」
 それでも、父を賞められて嬉しくないはずはない。二年前、白妙との心中事件を起こして以来、父の評判はがた落ちだった。店の身代も信用も何もかも投げ打って恋に血迷った愚かな男よ―と、悪し様に言う人もけして少なくはなかった。
 父のことをそんな風に賞めてくれる人に随分と久しぶりにめぐり逢ったような気がする。
 そう思うと、知らず熱いものが溢れた。
 そっと眼尻をぬぐう八重に、清冶郞が愕いたような声を上げた。
「いかがした、何か気に障ることを申したか?」
「いいえ、父が亡くなってからというもの、父をあまり良く言う方はいなかったもので―、若君さまが父のことを賞めて下さったゆえ、つい嬉しうて」
 次の瞬間、八重は自分に起こったことが俄には信じられなかった。
 清冶郞が八重の身体に両手を回して、ギュッとしがみついてきたのだ。誰が見ても、そうは見えないのだが、どうやら清冶郞は八重を抱きしめたつもりらしかった。
 もちろん、小柄な八重と比べても、清冶郞はまだまだ、はるかに背が低い。
 だが、清冶郞は大真面目な顔で言った。
「私があと少し大人であったら、八重をそんな風に泣かせることはなかったのに。八重、私が大きくなってくれるまで、待っていてはくれぬか。私は八重をどうしても妻に迎えたい。八重は私より九つ年上だから、私が十五になれば、二十四だ。その頃には今よりは釣り合いが取れるようになっているだろう。そのときには、父上にお願いして、八重を妻に迎えられるようにお願いするつもりだ。だから―、待っていてくれ。私は死なない。八重に出逢ってから、死ねないと思ったんだ。八重を妻に迎えるまでは、どんなことをしても生きてみせる」

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