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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第3章 雨の日の出来事

 まだわずかに落ちる雨滴の中、八重は泣きながら庭を走った。
 藩主の命は絶対である。嘉亨が八重を側にと望むのであれば、その意に逆らうことはできない。たとえいっとき限りの閨の相手であろうと、拒むすべはないのだ。
 初めて蓮池のほとりで出逢ったその瞬間から、嘉亨の深い瞳に惹かれ、眼が離せなくなった。恐らく、こんな気持ちを人は恋というのだろう。その男のことが頭から離れなくなり、見つめられただけで頬が熱くなり、心がときめく。
 しかし、幾ら好きになった男でも、無理強いされるのは厭だ。世の常の男女のように、互いの気持ちを刻をかけてゆっくりと確かめ合い、恋を育んでゆきたい。もうすぐ嫁ぐ親友のお智のように、相惚れになった男と添い遂げ、結ばれることができたなら。
 が、大名である嘉亨を相手に、ただの腰元にすぎない八重がそのような大それた願いを望むことはできない。嘉亨が単なる戯れや気紛れで八重を求めているのだとしても、八重は望まれるままに身を差し出さねばならない。
 先刻、あの場で嘉亨が八重を強引に我が物にしなかったのは、嘉亨という男の優しさ、真面目さゆえだろう。
 その点はやはり父子だ、清冶郞とよく似ている。優しくて、不器用で、自分に厳しく、誰よりも真面目で、そして、寂しがり屋だ。
 どこをどう駆けたものか、八重はいつしか蓮池の側に立っていた。すっかり小雨になった中、蓮池は常にもまして静まり返っている。
 蓮の花が雨の雫を帯び、艶やかに輝いていた。八重は片手を開いて、手に握りしめたままの招き猫を見つめた。
 いつもは眠たそうな招き猫が何だか泣いているように見える。
 八重は小さな猫を見つめながら、いつまでもその場で泣いていた。

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