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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第1章 第一話〝招き猫〟―旅立ち―

 伊予屋に来てからというもの、弥栄は少しだけ変わったと自分でも思う。ほんの少しだけれど、世間というものを見たような気がしたのだ。伯父は世間的には自分を伊予屋の跡継として迎えると言ったけれど、今となっては、果たしてその気持ちもどの程度信じて良いものだったのかと疑問だ。
 昨年、弐兵衛とおすみ夫婦は、赤児を引き取った。弐助と名付けられた男の赤ン坊は、おすみの実の妹の生んだ子である。弐助の生母おさよとおすみは歳が十も離れていて、おさよは三十で末っ子の弐助を生んだ。おさよは日本橋の薬種問屋に嫁いでいるが、弐兵衛は女房の妹の生んだその赤ン坊を引き取ったのである。
 妹の子を引き取った頃から、二人の態度が微妙に変わった。それでもまだ伯父は良かったが、自分の直接血の繋がった子を引き取った伯母の態度は冷たかった。とはいえ、弥栄がここに来た当座から、おすみの態度はつっけんどんで、物言いもまるで本当に女中に対するような高飛車なものだった。
 このまま自分はこの伊予屋でどうなってゆくのか。弥栄は時折、ふっと物寂しさに囚われることがあった。弐助というちゃんとした跡継を得た今、伯父夫婦にとって弥栄の存在は邪魔なものでしかない。それでも、弐兵衛はとにもかくにも父の残した借金を肩代わりしてくれ、弥栄が女郎に身を堕とさずに済んだのは、この伯父のお陰であった。
 弐兵衛はこれから先もずっと、途方もない借財を返済してゆかなければならないのだ。多少恩着せがましい態度を取ったとしても、それは仕方のないことだろう。
 とはいっても、まだ十六の弥栄にとっては今の暮らしは辛いものであった。夜半、狭い部屋の夜具に潜り込み、声を殺して泣くこともしばしばだった。
 今となっては、父が懐かしい。

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