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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第4章 夜の蝶

「旦那さま、お疲れなのではありませんか? お顔の色が優れません」
 まさか急に老け込んで見えるようになったとも言えず、言葉を選んだ。
「そうなのか? 私は今、いつになく穏やかな心もちなのだが。かつてこれほど凪いだ気持ちになったことはなかった」 
 その瞬間、香花は悟った。
 明善がついに覚悟を決めたのだ。
 物事を真正面から捉えることのできる眼、覚悟した者だけが持つ厳しい横顔。今の明善はまさに静かな決意に満ち溢れた者だけが持つ特有の静謐な雰囲気を纏っている。
 だが、明善のやつれ様を見ても、彼がこの決断を最終的に下すまでにどれほど悩み、懊悩したのか窺えた。
「私はたった今、そなたに多くのものを貰っておきながら、結局は何も返してやれなかったと言った。その上、最後までこのようなことを頼むのは真に心苦しい。だが、私には他に頼める者も信頼できる者もおらぬ。金先生、どうか私の心からの頼みを聞き入れては貰えないだろうか」
 香花はヒヤリと冷たいもので頬を撫でられたような想いだった。
 明善さまは今、何と言った?
 最後、確かに最後までとおっしゃった―。
 〝最後〟とは、一体どういうこと?
 明善の澄み渡った哀しい瞳を見たそのときから、既に彼の決意は判っていたはずなのに、いざ明善その人の口から〝最後〟という言葉を聞いただけで、こんなにも取り乱してしまう。
「二人の子らを連れて、都から落ち延びて欲しいのだ」
 静かな声音が聞こえてくる。
 香花は弾かれたように面を上げた。
 その瞬間に零れ落ちた科白は、たったひと言だった。
「できません」

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