テキストサイズ

月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第4章 夜の蝶

「図々しい頼みであることは判っている。金先生、私はあの子たちの父だ。親が子の無事を願うのは人の情として当然だ。しかし、無事でいて欲しいのは子どもたちだけではない。先生、そなたにはたとえどのようなことがあろうと、この先、生きて幸せになって欲しい。先生の申すとおり、妻への想いはいまだに忘れがたいが、今の私は亡くなった妻よりも大切に思う女ができた。先生、男なら誰しも愛する女を生かしたいと願うものだ。ましてや、私は妻を自分の立身のために死なせている。そんな甲斐性なしの私だからこそ、今度は惚れた女を自らの野望の犠牲にしたくはない、死なせたくないと思うのだ」
 穏やかな優しい声が頭上から降ってきて、香花はゆっくりと顔を上げる。
 互いの呼吸すら聞こえるほど間近に、大好きな男の貌があった。
 視線と視線が切なく絡まり合うこの一瞬。
 時間を針と糸で縫い止めておけるものであれば、縫い止め、永遠に時の流れを止めてしまいたいとすら願う。
「冬の長い夜を半分に切り取って、布団の中にしまっておこう。あの方が来る夜に取り出し夜を長くできるように」
 自分でも意識しない中に、涙が溢れていた。
「それは―、黄真伊(ファン・ジニ)だね」
 流石は明善だ、すぐに詩の作者を言い当てる。
 香花は泣き笑いの顔で明善を見た。
「不思議です。人は天に定められた時が過ぎれば、その生命を終えますが、たとえ人は滅び、その肉体はこの世から消え去っても、その人が残した詩や絵は形となって、いつまでも残ります。私はこれまで黄真伊のこの詩を口ずさんでも、特に何の感慨を得たことはなかったけれど、今、二百年も前に生きていたこの女性の歓びやときめき、悲哀がひしひしとまるで我が事のように胸に迫ってくるような気がしてなりません」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ