
月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】
第1章 第一話【月下にひらく花】転機
崔氏の屋敷に来てから、香花は自分で自分の気持ちがよく判らない。というよりは、まるで秋か梅雨時の空のようにころころと変わる自分の気持ちを持て余しかねているのだ。
崔家に来てから、半月ほどを経たある日のことである。
香花は明善から直々に頼まれ、書斎に茶を運んだ。廊下側から遠慮がちに声をかける。
「旦那(ダー)さま(リー)、お茶をお持ち致しました」
ほどなく応(いら)えが返ってきた。
「入り(トラ)なさい(オノラ)」
香花は書見の邪魔にならぬように注意して戸を開ける。
「ああ、先生」
明善は顔を上げると、にこやかに笑んだ。その笑顔に何故か、胸の鼓動が一瞬だけ跳ね上がってしまう。
明善は子どもたちの師である香花に対しては〝先生〟と呼び、礼を尽くすが、そう呼ばれる度に居心地の悪いようないたたまれなさを憶えてしまう香花である。
香花は捧げ持った小卓をしずしずと運び、明善の前に置いた。
「お茶と一緒にお菓子もお持ちしました。旦那さまは甘いものはお嫌いですか? 疲れたときには甘いものを食べるのがいちばんだと亡くなった父がいつも申しておりました」
「先生の父御は、稀に見る知識人であったと張家の奥方から聞いたが」
香花の淹れた茶を美味そうにひと口飲み、明善はふと思い出したように言った。
香花は淡く微笑する。
「まさか。しがない下級官吏です。張先生ほどのお方と親しくお付き合いさせて頂いてはおりましたが、父自身はごく普通の人でした」
張峻烈は都でも名の知れた儒学者だ。父とは親交があったはいうものの、香花の父は学者と呼べるほどの人物ではない。
崔家に来てから、半月ほどを経たある日のことである。
香花は明善から直々に頼まれ、書斎に茶を運んだ。廊下側から遠慮がちに声をかける。
「旦那(ダー)さま(リー)、お茶をお持ち致しました」
ほどなく応(いら)えが返ってきた。
「入り(トラ)なさい(オノラ)」
香花は書見の邪魔にならぬように注意して戸を開ける。
「ああ、先生」
明善は顔を上げると、にこやかに笑んだ。その笑顔に何故か、胸の鼓動が一瞬だけ跳ね上がってしまう。
明善は子どもたちの師である香花に対しては〝先生〟と呼び、礼を尽くすが、そう呼ばれる度に居心地の悪いようないたたまれなさを憶えてしまう香花である。
香花は捧げ持った小卓をしずしずと運び、明善の前に置いた。
「お茶と一緒にお菓子もお持ちしました。旦那さまは甘いものはお嫌いですか? 疲れたときには甘いものを食べるのがいちばんだと亡くなった父がいつも申しておりました」
「先生の父御は、稀に見る知識人であったと張家の奥方から聞いたが」
香花の淹れた茶を美味そうにひと口飲み、明善はふと思い出したように言った。
香花は淡く微笑する。
「まさか。しがない下級官吏です。張先生ほどのお方と親しくお付き合いさせて頂いてはおりましたが、父自身はごく普通の人でした」
張峻烈は都でも名の知れた儒学者だ。父とは親交があったはいうものの、香花の父は学者と呼べるほどの人物ではない。
