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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第6章 第2話【燕の歌~Swallow song】・新しい町

「光王!」
 大声で呼ばわっても、光王は振り向きもせずに一人で歩いてゆく。
 仕方なく香花は全速力で走り、やっと光王のすぐ後ろに付いた。
「今の使道の名は全正史(ジヨンジヨンサ)か」
 突然の光王の呟きは低く、その声音は限りなく冷え切っていた。甦った死者の声を思わせるその冷え冷えとした声音は、香花でさえ怯えさせるのに十分な迫力がある。
「光王、あの男が―」
 あの男ジャンインがこの件に関しては動かないでと言っていたじゃない。
 言いかけて香花は言葉を呑み込む。
 こんな光王は見たことがない。冬の月のように冴え冴えと冷たく輝く鋭利さを持ち、人を殺すことにも躊躇しないのではと思ってしまいそうになる酷薄な顔。
 これこそが〝盗賊光王〟の本来の顔なのか。〝光王〟は時に暗殺者ともなり、自らが狙った獲物は一撃で仕留めるという。誰の命令も受けず、ただ自分がその人物を不用と判断したときのみ動き、その者をこの世から抹殺する。それが〝手練れの暗殺者光王〟なのだ。
 確かに、使道のせいで苦しむこの町の人たちは気の毒だとは思う。使道とは下の者が長官を敬って呼ぶ言葉で、この場合は府使を指す。
 府使は地方官の役職名の一つで、判り易くいえば代官である。一般に都を除く各道に知事がおり、これを監司または観察司と呼ぶ。府使はその下に位置し、従二品を授かる地域都市の首長であった。何より民の暮らしを守り、善政をしくべきはずの府使が自らの欲を満たすために民を苦しめているのは当然ながら、許されない所業である。

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