月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】
第7章 春の宵
今、香花の頭の中は、光王の誕生祝いのことで一杯なのだ。
香花が色々と心躍る想像を巡らせていたまさにその時。
道の向こうから全速力で疾駆してくる男が香花にまともに激突した。
「ツ、痛」
香花は弾みで後方へ飛ばされ、したたか尻や腰を地面に打ちつけてしまう。
「手前、気をつけろ。天下の往来をどこに眼着けて歩いてるんだよ」
三十そこそこの男は怒鳴り散らすと、また脱兎の勢いで駆け去ってゆく。
謝りも抗議もできない間に、男は眼の前からいなくなっていた。茫然と走り去る男の後ろ姿を見送っていた香花の前にそっと手が差し出される。
「大丈夫か?」
急に声が頭上から降ってきて、香花は愕いて面を上げた。
「随分と危ないことをする。天下の往来は皆のものなのに、その往来を我が物顔に突っ走っているあの男の方にこそ非があるではないか」
香花の視線の先に、一人の若者が佇んでいた。まだ成人前であることを示す両班の子弟独特のいでたちがよく似合っている。頭巾で包まれた面立ちは秀麗で、どことなくおっとりとした品の良さを窺わせる。
成人前とはいっても、香花よりは年上であることは間違いない。恐らく、十八、九くらいだろう。
「さ、私の手に掴まって」
年の割には落ち着いたやわらかな声音だ。春の光を彷彿とさせる優しい眼の光が、誰かを思い出させる。この頃は、とみに思い出すことが少なくなっていた誰か、でも、大切な人、愛おしい想い出。
香花は知らず若者の手に縋り、助け起こされていた。
香花が色々と心躍る想像を巡らせていたまさにその時。
道の向こうから全速力で疾駆してくる男が香花にまともに激突した。
「ツ、痛」
香花は弾みで後方へ飛ばされ、したたか尻や腰を地面に打ちつけてしまう。
「手前、気をつけろ。天下の往来をどこに眼着けて歩いてるんだよ」
三十そこそこの男は怒鳴り散らすと、また脱兎の勢いで駆け去ってゆく。
謝りも抗議もできない間に、男は眼の前からいなくなっていた。茫然と走り去る男の後ろ姿を見送っていた香花の前にそっと手が差し出される。
「大丈夫か?」
急に声が頭上から降ってきて、香花は愕いて面を上げた。
「随分と危ないことをする。天下の往来は皆のものなのに、その往来を我が物顔に突っ走っているあの男の方にこそ非があるではないか」
香花の視線の先に、一人の若者が佇んでいた。まだ成人前であることを示す両班の子弟独特のいでたちがよく似合っている。頭巾で包まれた面立ちは秀麗で、どことなくおっとりとした品の良さを窺わせる。
成人前とはいっても、香花よりは年上であることは間違いない。恐らく、十八、九くらいだろう。
「さ、私の手に掴まって」
年の割には落ち着いたやわらかな声音だ。春の光を彷彿とさせる優しい眼の光が、誰かを思い出させる。この頃は、とみに思い出すことが少なくなっていた誰か、でも、大切な人、愛おしい想い出。
香花は知らず若者の手に縋り、助け起こされていた。