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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第7章 春の宵

「あの―、ご親切に、ありがとうございます」
 香花が丁重にお辞儀をすると、若者は照れたような笑みを浮かべた。
 ああ、この表情、この瞳。
 香花は漸く合点がいった。この双眸は、かつて彼女が心から恋い慕った男、崔明善に似ているのだ。
 凪いだ春の日のように穏やかで、温かな瞳を持つ男だった。
「いや、礼を言って貰うほどのことではないよ。そなたの方こそ、大丈夫か? 怪我はない?」
 こうやって相手を心から気遣う優しさもあの男と同じだ。そこまで考えて、香花はハッと我に返る。
―私ったら、何を考えているの?
 この若者は見知らぬ町でたまたますれ違っただけにすぎない、言わば、ゆきずりの男だ。その男が明善に似ているだなんて、考える方がどうかしている。
 光王との穏やかな日々に、恋しい男を失った哀しみも薄紙を剥ぐように少しずつやわらいでいったように思っていたけれど、やはり、あの男を失った辛さはそんなに容易く忘れられるものではないのだ。
 しかし、明善の面影を重ねられた若者にとっては迷惑なだけの話には違いない。
「大丈夫です。どこにも怪我はありませんから」
 微笑んで言うと、何故か若者は眩しげに眼を細めた。
「何なら、家まで送ろう。今は大丈夫なようでも、どこかに怪我をしていてもいけないから」
 物腰や身なりから見ても、両班の子息らしい育ちの良さを感じるが、身分に驕ったところなど何一つもない。感じの良い若者だ。

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