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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第7章 春の宵

「お心遣いは感謝しますが、ちゃんと一人で帰れますから」
 村までは遠いのに、まさか両班の子息を歩いて付き合わせるわけにはゆかない。
「そなた、見たところ―」
 若者がそこまで言いかけた時、前方で怒声というか罵声が響き渡った。
「おーい、そこの娘っ子を捕まえてくれ!」
 どういうわけか、自分を捕まえてくれと四十ほどの男が声高に喚いている。
 香花も若者も、愕いて走ってくる男を眺めていた。そうこうしている間にも男は走ってきて、荒い息を吐きながら意味不明のことをまくし立てる。
「おい、娘。先刻、お前が俺の財布をまんまと擦ったことは判ってるんだぞ。さっさと盗んだそいつを返しな」
 いきなりな言葉に、流石に普段はおっとりとした香花も血相を変えた。
「何ですって、私があなたの財布を盗んだですって? 冗談も休み休み言って下さい」
「こちとら冗談で、そんなこと言ってるほど暇じゃねえんだよ。あれは俺の先月分の稼ぎが全部入ってたんだぜ? あいつがなけりゃア、俺や嬶(かかあ)、三人のガキも皆、今夜中に首を括っておっ死んじまわなきゃなんねえんだ」
 どうやら、ひと月分の給金を自宅に持ち帰る途中に、不運にも掏摸(すり)に遭ったようだ。しかし、自分がこの男の財布を擦っただなんて、とんでもない。
「私は、あなたの財布を盗んでなんかいません」
「だが、お前は今し方、俺の財布をかすめ取って行きやがった男とグルなんだろう? 俺は、あいつがぶつかったふりをして、財布をお前の懐に入れるのを確かに見たぞ」
 男は一向に引き下がる気配はない。

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