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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第7章 春の宵

―大丈夫、何もかも私に任せて。
 眼でそう語りかけてくるのに、香花は涙も忘れて一瞬、見入った。
―香花、私だ。明善だよ。
 あたかも死んでしまった想い人が再び生命を得て帰ってきたかのような錯覚に囚われる。若者がやに下がっている役人に近づいた。
「そこの者。もし、財布が出てこず、この娘が真に小刀で喉をかっ切って果てたらば、そなたはいかが致す所存だ?」
「へっ、青二才が何を言って―」
 言いかけた役人が若者の顔をまじまじと見つめ、一瞬、硬直した。
「見れば、この娘は庶民のなりをしてはいるが、その物腰や気品から両班家の娘と察する。恐らくは事情があるのだろうと思うが、もし、両班の令嬢をそのようなつまらぬことであらぬ疑いをかけ、辱めて死に至らしめたとなれば、そなたの首一つでは事は済まされまい。家族に至るまで、その罪に問われるは必定、それでも、そなたは、あくまでもこの女人に衆目の前で裸になれと申すか」
「あ、あなたさまは」
 そろそろ五十に手が届くかというひげ面の役人がその場にひれ伏した。
「も、申し訳ございません。若さまの仰せとあれば、是非もありません。ましてや、両班のご令嬢にそのような無体をどうして申し上げましょう。この件は沙汰止みと致しますので、ど、とうか、お父上にはご内聞に」
 自分の息子よりも若い男に這いつくばって赦しを乞う役人を、香花は呆気に取られて眺めていた。

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