月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】
第7章 春の宵
だから、あの口づけもそれほど気にすることはないのかもしれない。何もなかったような顔で帰り、〝ただいま〟と言えば、光王もまた何もなかったように〝お帰り、どこに行ってたんだ〟といつものように少し怖い顔で睨み、それで終わりだ。
夜気が花の香りを孕んでいる。
香花は鼻をうごめかし、匂いの流れてくる方を見上げた。芳香に誘われるように視線を動かしたその先には、塀越しに道までのびた梅の枝先が見えた。
人気のない夜の道である。時折、犬の遠吠えが響いてくる他は物音は一切ないが、月が明るいので心細くはなかった。村を出て、行く当てもなく歩いている中に、いつしか町まで来ていた。ここは町でも外れになるはずである。
どこかのお屋敷なのか、立派な建物の回りをぐるりと塀が巡らされていた。庭に梅の樹があるらしく、ひと枝だけ塀を越えて道にまで伸びているのだ。
ふいに玲瓏とした声が夜陰に染み渡った。
「梅花の下(もと)にて愉しまん、春宵、値千金。燕、蒼穹に飛翔し、空涯(はて)なく澄み渡る。嗚呼、愉しきかな、我が心もこの空のごとく清澄なり。惜しらくは、夜の短きこと、花の儚きこと。なればこそ、今、愉しまん」
春の情景、梅の香漂う一瞬を見事に謳った詩だ。香花はその声と詩の見事さに惹かれた。
夜気が花の香りを孕んでいる。
香花は鼻をうごめかし、匂いの流れてくる方を見上げた。芳香に誘われるように視線を動かしたその先には、塀越しに道までのびた梅の枝先が見えた。
人気のない夜の道である。時折、犬の遠吠えが響いてくる他は物音は一切ないが、月が明るいので心細くはなかった。村を出て、行く当てもなく歩いている中に、いつしか町まで来ていた。ここは町でも外れになるはずである。
どこかのお屋敷なのか、立派な建物の回りをぐるりと塀が巡らされていた。庭に梅の樹があるらしく、ひと枝だけ塀を越えて道にまで伸びているのだ。
ふいに玲瓏とした声が夜陰に染み渡った。
「梅花の下(もと)にて愉しまん、春宵、値千金。燕、蒼穹に飛翔し、空涯(はて)なく澄み渡る。嗚呼、愉しきかな、我が心もこの空のごとく清澄なり。惜しらくは、夜の短きこと、花の儚きこと。なればこそ、今、愉しまん」
春の情景、梅の香漂う一瞬を見事に謳った詩だ。香花はその声と詩の見事さに惹かれた。