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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第9章 燕の歌

 歳格好から、ほぼ自分の推量が間違いないであろうことを香花は悟った。
 若い男は無表情に知勇の乗った馬の手綱を持っている。その表情からは、妻を奪われ、殺された男の悲哀は一切感じられない。この時代、使用人とはそういうものなのだ。主人の意向には逆らえず、どれほどの無体を強いられても、甘んじて受け容れねばならない。
 代々、使用人の家系に生まれた者は幼い頃から、そうやって自分の感情は殺して主人の希望を最優先するように躾けられて育つ。ゆえに、この若い男のように、苛酷な宿命(さだめ)を押しつけられても、けして表には出さないようになっているのだ。
 知勇はひらりと馬から降りると、馬は伴人に預け、自分は一人で香花の方にやってきた。
「どこかにお出かけだったのですか」
 香花が問うと、知勇は鷹揚に笑った。
「学問所まで出かけた帰りなんだ」
「若(ソバ)さま(ニム)はいつもお勉強熱心なのですね」
 香花の言葉に、知勇は面映ゆげな顔になる。
「他にすることもないからね。とりあえず父は私が学問をしていれば、機嫌が良い」
「お父上さまは、若さまにご期待をかけておいででしょう」
「さあ、どうだか」
 知勇は曖昧な笑みを浮かべたが、ハッとした表情で香花を見た。袖から白い手巾を取り出したかと思うと、香花の眼尻に溜まった涙の雫をぬぐう。
「そなたは、いつも泣いている。あの夜も、やはり泣いていた」

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