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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第9章 燕の歌

 〝あの夜〟というのが半月前のことだとはすぐに判った。あのときも確かに光王と喧嘩して家を飛び出し、気が付けば、隣町の知勇の屋敷まで来ていたのだ。
 香花は無理に微笑みを作ると、小さく首を振った。
「私のことなど、どうかご心配なさらないで下さい。それよりも、若さま、この辺りに学問所がありましたか?」
 香花が話題を変えたがっているのを察したのか、知勇はそれ以上、追及しようとはしなかった。
「そなたは、この先の村に?」
 知勇の問いに、香花はコクリと頷いた。
「私の通う学問所は、そなたの住む村の更に隣の村にある。その村もここと変わらない小さな村だが、都からおいでになった高名な需学者が隠棲されていてね。この界隈の両班の子弟を集めて私塾のようなものを開いておいでなんだ。私は父の言いつけで三年前から通っている」 
「大変ですね、そんなに遠くまで」
 更に隣の村までとなれば、町からは馬で片道半刻、往復一刻は要する行程である。
 春の陽ざしが地面でかすかに揺れている。
 頭上の梅の樹の影が風が吹く度、細かく震えた。
「たいしたことはない」
 知勇はやわらかく笑むと、真っすぐに降ってくる春の陽光に眼を細めた。

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