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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第9章 燕の歌

 多分、この若者の求婚を受け容れたら、香花は他人(ひと)が羨む幸せを手に入れられる。夢も未来もある健康そのものの青年、名家の子息との結婚。
 長年の香花の悲願であった金家の再興さえ、難なく果たせるかもしれない。
 でも、安穏を得るためだけに、結婚はできない。何より、優しいこの男を騙したくない。
 知勇に好意を抱いているし、その人柄に惹かれてはいるけれど、これは恋ではない。
 知勇と一緒にいても、切なくなるような胸の疼きも、裏腹に頭がどうかしてしまったのではないかと思うほどの高揚感もないから。
 人生を共に過ごすのなら、知勇のように穏やかで安らげる相手を選ぶのも良い―いや、それが賢明なのだろう。
 けれど、やはり、できない。明善を失ったからだこそ、あれほど愛した男を亡くしたからこそ、香花は誰かを愛することは、魂を揺さぶられるほどの体験なのだと知っている。
 この先、そんな人が、自分にそこまで感じさせる人が現れるのかどうかも今はまだ判らないけれど、ただ一つだけ言えるのは、その人は知勇ではない。
 知勇の手はまだ香花の髪を愛おしげに撫でている。香花が思わず身を退こうとすると、彼は穏やかに笑った。
「ごめん。これ以上は何もしないから、もう少しだけ、このままでいさせて」
 何故だか、その儚げな笑顔が心に残った。

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