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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第9章 燕の歌

 使道の妾の証言は間違ってはいなかった。
 あの夜、知勇は父正史と口論になり、揉み合っている中に、不幸にも正史の頭に落ちてきた花瓶が激突、正史は頭の骨を折り、即死した。
 心ならずも父を殺してしまった知勇は絶望のあまり、自ら屋敷に火をかけ、焔の中で死んだのだ。
 屋敷には執事やその息子を初め大勢の奉公人がいたものの、皆、早い中に逃げて無事だった。焔に巻かれて死んだのは、ただ一人、使道の嫡男知勇だけだった。焼け跡からは、知勇と使道のものと思われる亡骸が発見され、役人の検めにより、片方の骸は頭部に著しい損傷の跡が見受けられた。
 両者共に、思わず眼を背けるほど無惨に炭化して、生前の名残をとどめるものは何一つなかったという。
―私の小燕。
 そう呼びかけたときの知勇の切なげな声が今も耳奥でこだまする。
―科挙に受かった暁には、妻を迎えろと父から言われている。香花、私はその時、この村にそなたを訪ねよう。もし、私が訪ねてきた時、愛する人を亡くした哀しみが幾ばくかでも薄れ、誰かに嫁しても良いと思うようになっていたら、私の妻になってはくれないか?
 少しはにかんだような笑みを浮かべながらも、あのときの知勇のまなざしは、どこまでも真剣だった。

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