テキストサイズ

月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第11章 謎の女

 香花がひと針ひと針、心を込めて刺した刺繍を持ち、従容と死に臨み、長い旅へと旅立っていったのだ。首を落とされてもなお、明善の手は刺繍を握りしめ放さず、やむなく、亡骸はそのまま葬られたと聞いた。
 その明善が香花の贈った刺繍と引き替えにくれたロザリオを光王は捨てろと言うのか?
 香花の眼に熱い涙が滲む。
「香花はそれで良いかもしれない。恋しい男の形見を握りしめて、天主教信者と間違われるんだから、それこそ本望だろうが、巻き添えを食う俺の身にもなってみろよ。迷惑も良いところだぜ」
 唾棄するような物言いに、香花はキッとなって叫んだ。
「人前では確かに〝お兄ちゃん〟と呼んではいるけれど、あなたは兄じゃない。私の兄でもないのに、いちいち指図される必要はないわ」
 こうなると、売り言葉に買い言葉だ。光王も負けずに烈しいまなざしで睨んだ。
「俺はお前の兄になるつもりも、家族になるつもりもない」
 その言葉を香花は最後まで聞いてはいなかった。
「私だって、自分から頼んだつもりはないわ。一緒にいて欲しいとも、家族になって欲しいとも言った憶えはないもの!」
 泣きながら部屋を飛び出した香花は、そのまま広い居間を横切り、家を飛び出す。
 明善さま、何故、私を残して逝ってしまったの? あなたのいないこの世は、こんなにも淋しいのに、どうして、私を一人にしてしまったの?
 だからといって、ここを出ても、どこに行く当てがあるわけでもないのだ。
 涙で曇った眼に、繊細な眉月が朧に滲む。
 香花は、やり場のない想いで庭に佇んだ。
 既にすっかり花を閉じてしまったあの花―香花の大好きなピンク色の小花たちは、ほのかな月明かりの中ですやすやと眠っているかのように見えた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ