テキストサイズ

月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第2章 縁(えにし)~もう一つの出逢い~

 男がプッと吹き出したその時、母家の灯りがついた。俄に邸内が騒がしくなり、人声が聞こえてくる。
「おっと、そろそろ潮時のようだな。では、これでおさらばするか」
 男は香花の細首にかけた手を放し、肩をすくめた。
「私を殺さないの?」
「気が変わった。俺を見て月の化身かなんて惚(ほう)けたことを言った女は、お前が初めてだ。一風変わった女だが、気に入ったぜ」
 男は軽く片眼を瞑って見せると、踵を返そうとして、つと首だけねじ曲げるようにして振り向いた。
「お前を気に入ったから、一つだけ警告しておく。崔明善を甘く見るな。奴は空怖ろしい謀(はかりごと)に荷担している。この殺生簿に記されている者の名前はすべて、あいつの野望に巻き込まれるかもしれない連中の名前だ。うかうかしてると、お前まで巻き込まれちまうぞ」
 男はこれ見よがしにひらひらと殺生簿を持ち上げて振ると、素早く懐にねじ込んだ。
「じゃあな」
 まるで物見遊山に来たかのように呑気な態度で手を振り、溶け込むように闇の中に消えた。それはまるで闇が凝(こご)って人の形を取っていた美しき闇の精が再び闇へと還っていったかのようでもあった。
 茫然とあたかも魂を男に持ち去られたかのように立ち尽くしていると、背後から慌ただしい脚音が聞こえてくる。
「金先生、曲者が屋敷に忍び込んだようなのだが、大丈夫か?」
 いつしか明善が傍らに立っていた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ