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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第2章 縁(えにし)~もう一つの出逢い~

―崔明善を甘く見るな。奴は空怖ろしい謀に荷担している。この殺生簿に記されている者の名前はすべて、あいつの野望に巻き込まれるかもしれない連中の名前だ。うかうかしてると、お前まで巻き込まれちまうぞ。
 咄嗟に肩に置かれた手を振り払いそうになり、香花は慌てて自分を抑える。
 明善は疑念を抱く様子もなく、香花に優しい笑みを見せ、ウィギルを従え母家に戻ってゆく。その後ろ姿を、香花は哀しい想いで見送った。
 私は好きな男を信じることさえできないというの?
 どうして、誰よりも優しい明善よりも得体の知れぬ盗っ人風情の言葉を信じようとするのだろう。
 だが。
 あの盗っ人の言葉が真っ赤な嘘だとすれば、あの男が盗んだ殺生簿はどうなる? 
 何故、明善があのような物騒な代物をわざわざ寝室の箪笥に隠しておく必要がある?
 誰にも見られてはならないものだからこそ、明善は普段から人の出入りのない寝室にあれを仕舞っておいたのだ。何も茶番や遊びであんなものを拵えたりはしないだろう。
 あの殺生簿には領議政や兵曹判書の名前が見えた。領議政といえば、この国では官吏として最高位の官職であり、兵曹判書もまた大臣に匹敵する高官である。平の承旨にすぎない明善から見れば、上役だ。その朝廷の錚々たる大臣を明善は殺そうというのだろうか。
 一介の承旨が大臣を殺すなどと一人で企むとは考えがたい。そういえば、あの黒装束の男はこうも言っていた。
 明善が怖ろしい謀に荷担している、と。
 つまり、明善は誰かの企みの片棒を担いでいる、或いは担がされているということ?
 香花にしてみれば、そう思いたい。明善はただ脅されているか、何らかの理由があって仕方なく陰謀に協力しているだけなのだと。

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