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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 こんな失礼な男、一発や二発、ひっぱたいてやっても罰は当たらないはずだ。
「おっと、本当におっかねえお嬢さんだな」 男が笑い声を上げながら、スと手を伸ばす。
 振り上げた香花の手はいとも呆気なく男に掴まれた。
「―何故、言わなかった?」
 手を掴まれたまま、耳許で蠱惑的な声が囁く。そう、あの夜と同じ、この男は声でさえ人を惹きつけて止まない。
「どうして、俺のことを明善や役人に話さなかったのかと聞いている」
「痛い―、手を放して」
 実際は痛いというよりは、痺れていた。彼は絶妙の力加減で香花の手首を掴んでいる。痛みを殆ど感じさせず、ただじんじんとした痺れだけがそこにある。
 痺れは手首だけにとどまらず、徐々に香花の身体にひろがり、得体の知れない危うい熱を呼びさます。
 香花は、これまでそのような感覚を味わったことはなかった。その未知の感覚がそも何なのかを彼女がまだ知るはずもない。
「ね、手を放して」
 男の顔を見て懇願するように言ったその刹那、香花は思わず眼を奪われた。
 十日前、月明かりに照らし出された男の貌も十分に美しかったが、今、白日の光の下で見る彼の容貌はまさに神が与え給うた奇蹟としか言いようがなかったのだ。なるほど、この男が店主であれば、世の女たちは皆、おしなべて蝶が花に吸い寄せられるかのように集まってくるだろう。
―その現れる様は、まさしく一輪の明月が雲間より抜け出るがごとく、その神々しさ、美しさは、何をもってしても覆せそうにもない。
 かつて香花が愛読した小説に、主人公の少女の美貌を形容した一文があった。この男を見て、咄嗟に思い浮かんだのが、これだった。

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