テキストサイズ

月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 これほど美しい男を、香花はかつて一度も眼にしたことはなかった。ただ美しいだけではない。凄みのある美貌というのか、それでいて、妖艶な男の色香も漂わせているし、かといって、ただ女と戯れているだけの軟弱な優男という印象ではない。
 鍛え抜かれた武人を思わせる屈強な体軀と精悍さを併せ持つ美丈夫でもある。この男の魅力をもってすれば、落とせぬ女、靡かぬ女などいないのではないかとさえ思ってしまう。
 世のなべての女の心を蕩かさずにはおかぬとでもいえようか。
 抜き身の刀じみた両眼が香花を見返す。だが、それは、ひと刹那のことで、その切れ長の美しい眼(まなこ)はすぐに伏せられた。
 どこか気まずさを孕んだ沈黙の後、ゆっくりと開かれた瞳の奥には既に危ういほどの殺気は跡形もなく消えていた。
 代わりに、その両の眼に宿るのは無数の氷の棘を含んだかのような冷え冷えとした光、いや、冷たさとも呼べぬその形容しがたいものは、強いていうならば、限りない虚無―空しさであった。
 彼の瞳だったら、武器としても使えるだろう。危険なほど強い力を湛えている。それでいて、時折、言い尽くせぬほどの昏い翳りを落とす瞳に、女であれば誰もが惹きつけられ、眼が離せないだろう。そんな瞳を見つめていると、香花は金縛りに遭ったような気分になった。
 あの夜、月光を浴びて黄金色、或いは蒼色に煌めいていた瞳は、今はごく普通の色彩を宿していた。とはいえ、やはり、常人よりは色素がかなり薄く、その瞳は茶色っぽく見える。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ