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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 もとより、寝付けるはずもない。香花は幾度も床の中で寝返りを打った挙げ句、寝るのは諦め、片付けてあった刺繍道具を取り出した。大きな木枠に挟み込んだ絹布の上には、蒼色に染め上がった紫陽花が描かれている。
 もう殆ど出来上がっているが、ここのところ何かと忙しくて最後の仕上げができないでいた。香花は刺繍針を持つと、丹念に続きを刺し始めた。花は既に完成しているので、後は、花と戯れる蝶を刺せば、終わりである。
 どれほどの刻が経ったのか。
 ふと気が付くと、観音開きの扉の向こうに、人影が映っている。香花は小首を傾げ、自らを落ち着かせようとでもするかのように手のひらで胸許を軽く押さえた。
 こんな夜更けに誰だろう。もしやという想いが胸を駆けめぐる。
 コホンと小さな咳払いが聞こえ、香花はそっと扉を内側から開けた。
「旦那さま」
 予想は外れてはいなかった。手を伸ばせば、すぐ届きそうなほど近くに明善が佇んでいる。
「済まぬ。左相大監の手前、今宵はここを訪ねるしかなくてな」
「大監はもうお帰りに?」
「ああ、いつ今し方、漸く帰られた。だが、あの方はかなり猜疑心の強い方でな。今宵、私がそなたに関して言ったことも半信半疑であられた。ゆえに、自分の部屋に引き取ろうにも引き取れぬ」
 つまり、相成か、もしくはその付き人がこの屋敷の外で様子を窺っている可能性が高い―と、明善は読んでいるのだ。
 確かに、あの男のことだ、相成を送り出した明善が言葉どおりに、その後、香花の部屋を訪れたか見張っているに違いない。
「判りました」
 香花は頷くと、明善を中に招じ入れる。

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