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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 明善は少し緊張した面持ちで部屋に入ってきた。既に居間には床がのべられているのは当然だが、彼は夜具の方を努めて見ないようにしているようだ。
 香花はそれを察して、手早く絹の夜具を畳んで部屋の片隅に寄せた。
「要らぬ気を遣わせてしまう」
 明善は照れたような表情で笑い、漸く人心地ついたとでもいうように、胡座をかいて上座に陣取った。
 むろん、明善も白い夜着姿である。香花は改めて自分がしどけない夜着一枚だけの姿であることを意識しないわけにはゆかなかった。
「見事なものだな。まるで風が吹けば、今にも緑の葉がそよぎそうに見える」
 明善は感嘆したように言い、刺しかけの刺繍にしみじみと眺め入った。
 明善のさり気ないひと言のお陰で、その場の空気が随分とやわらいだ。香花は自分が深夜、明善と二人だけというこの状況にかなり緊張していたことに気付く。
「この刺繍が完成したら、私に貰えぬか?」
 唐突な頼みに、香花は眼を見開いた。
「このようなものでよろしければ、どうぞ」
「心の眼に灼きつけ、記憶に刻み込んでおきたい尊い絵だ」
 この刺繍の何が明善をそこまで動かしたのかは判らない。でも、大好きな男が自分の刺繍を気に入り、欲しいと言ったのは素直に嬉しい。
「心を込めて―仕上げさせて頂きます」
 香花は知らない。明善を、愛する人を想いながら、ひと針ひと針刺していった彼女のその心こそが布の上の花をより生き生きと輝かせ、活けるかのごとく生気を漲らせているのだ。そして、また、明善自身も香花の己への恋情を知らないのに、その花の刺繍から溢れる彼女の想いを無意識に感じ取り、惹かれている。

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