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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 香花はコクリと頷く。明善は香花の豊かな丈なす黒髪を大切そうに撫でた。それは、まるで父親が娘にするような、慈愛の満ちた仕種だ。
「昔、都に両班の若い男がいた。男には貞淑で優しい妻と可愛い二人の子どもがいた」
 明善の歌うような口調は、あたかも本当に昔話を聞かせているかのようだ。
 話は続いてゆく。
 男は妻と二人の子どもたちと幸せに暮らしていたが、ある日、彼を哀しい出来事が襲う。
 彼の美しい妻が時の大臣に見初められたのだ。妻はその日、知り合いの屋敷に出かけた帰り道だった。両班の奥方であれば、外出には輿を使うのが常識だが、奥方は元々、両班の生まれではなかった。
 良人の叔母に当たる女性の嫁ぎ先で下女をしていたところ、良人の母が気性も優しく働き者のその娘をいたく気に入り、我が屋敷の侍女として譲り受けたのである。新しい屋敷で働き始めた妻はその家の主人である男と知り合い、烈しい恋に落ちて妻に迎えられた。
 そのため、奥方は万事につけ控えめで、華美を嫌った。外出も近くならば、仰々しく輿を使わず、歩いてゆくことが多かった。それが、かえって不幸になった。
 町外れの道を伴の女中と二人で歩いていた奥方の傍をたまたま参内した帰りの大臣が輿で通りかかった。奥方はいわゆる絶世の美人というのではなかったが、優しい気性が容貌にも反映して、大人しやかな、しっとりした色香が漂っていた。その臈長けた美しさに、好色な大臣が眼を奪われたのだ。
 大臣はひそかに奥方の後を付けさせ、彼女がさる両班の夫人だと知った。その上で、良人を呼び出し、奥方に一夜の伽を所望した。もし求めを断れば、良人の官職を奪い、家門を断絶させてやるとまで脅した。

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