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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

「お止め下さい!」
 香花は悲鳴のような声で叫んだ。
「旦那さま、旦那さまのお気持ち、奥さまののご無念はお察しいたします。でも、旦那さまにはお二人のお子さまもいらっしゃるのですよ? どうか桃華さまや林明さまのためにももう一度、お考え直し下さいませ。今からでも、けして遅くはありません」
「私は、あの男の求めに応じて、我が妻をおめおめと差し出した。妻はあやつに身体を弄ばれた末に絶望して自ら死を選んだのだ。―私はけして、あの男を許さないだろう」
 その瞬間、香花の中で閃くものがあった。
 明善が心底から殺したかった男―、その男の名はけして殺生簿には記されていなかったはず。
 香花の瞼に、今宵、遭遇した黒装束の男の科白が甦る。この世のものとも思われぬ美貌の持ち主である若い男は確かに言った。
―ここに書いてあるのは、皆、あやつの野望に巻き込まれるかもしれない連中の名前だ。
 あの時、男は〝明善が殺そうと企む連中〟とは言わなかった。そのときは動揺のあまり気付かなかったけれど、その些細な言葉の違いが重要な意味を持つのだと今、漸く悟った。
 そうなのだ、明善がひそかに隠し持っていたあの殺生簿は、実は彼にとっては何の意味をも持たない代物だった。あれが人知れず盗まれた時、ただ陰謀が事前に露見してはまずいため、明善は慌てたに過ぎなかった。
 陰謀が知れれば、明善の計画はすべて水泡に帰す。彼は殺したい男を殺せなくなってしまう。
 殺生簿に書かれていた多数の者は、彼にとっては殺したい相手でも何でもない。明善が殺したいほど憎んでいるのは、ただ一人、陳相成のみ!!

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