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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 それから幾日かを経た。
 夕刻、香花が厨房でソンジョルと夕飯の拵えをしている真っ最中のことだ。
 ウィギルが顔を覗かせた。
「先生、兄さん(オラボニ)が来てますよ、お忍びなんですかねぇ、地味な格好をなさってましたが」
「兄さん―」
 香花は一瞬、怪訝に思う。自分に兄など存在するはずがないのに、何故、いないはずの兄が自分を訪ねてくるのか。
 ウィギルが人の好さそうな笑みを浮かべた。
「あんな良い男が兄さんじゃア、俺なんか、所詮は道端の石ころくらいにしか見えねえよな。それにしても、先生んところは皆、凄ぇ美形揃いなんですね」
 最後のひと言で、その突然現れた兄というのが誰なのか推察できた。
 香花の脳裡に、この世の者とも思われぬ美貌が浮かぶ。まさに神の祝福を受けたとしか思えない、眩しいほどの美しさを持つ男。
 香花はソンジョルに断り、少しだけ外させて貰った。庭を突っ切って門を出ると、誰の姿もない。ウィギルが嘘をつくはずもないので、きょろきょろと周囲を見回していると、
「ここ、ここだよ」
 と、大きな手のひらが屋敷をぐるりと取り囲む塀の曲がり角から覗いて、ひらひらと動く。
「何しに―」
 何しにきたのよ、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。人の眼も耳もあるのだ。ここはやはり用心に用心を重ねるに越したことはない。
「兄さん(オラボニ)」
 さも嬉しげに笑顔を作り、手を振り返す香花を見、あの男が呆れたような肩をすくめる。
「お前って、結構役者だなァ。こんなお屋敷勤めより、旅芝居の一座にでも入った方が向いてるんじゃないか?」

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