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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第3章 陰謀

 香花の〝兄〟と名乗るからには両班の若者らしい作りにしなければならないのに、いつもと同じ行商人風の格好である。大胆なのか、それとも、愚かなのか。道理でウィギルが〝お忍びなんですかねぇ〟と首をひねっていたのも頷ける。
「失礼ね。わざわざ、そんなこと言って、私をからかうためにここまで来たの?」
 香花はわざと怖い顔で男を睨む。
「おいおい、嬉しそうな顔、嬉しそうな顔! そんな怖い顔じゃ、どう見ても、久しぶりに恋しい男に再会した女には見えないぜ」
「何をふざけたこと言ってるの! あなたは兄さんってことで来たんでしょ。話を勝手にすり替えるのは止めてよね」
「はは、そうだったな。悪い、悪い。どうも、お前といると、調子が狂っちまう。別に喧嘩を売りに来たわけでもないのに、顔を見りゃア、このとおりだものな」
 男はへらへらと笑っているが、一体、どこまで本気なのか知れたものではない。こんな脳天気な顔を見ていると、あの月夜の晩、黒装束で屋敷に忍び込んできたときや市場で〝〟何故、言わなかった?〟と凄みを漂わせていたときの男とは別人ではないかと思ってしまいそうになる。
 様々な顔を持つ不思議な男。だからこそ、得体が知れず、どこか信用できない。
「ところで、お前の名は?」
 香花は呆れ返って、眼前の男をしれっと見つめた。
―別に、あなたには関係ないでしょ。
 そう言って追い返すこともできたが、そこまで頑なになる必要もないだろうと思ったのだ。―何より、この男には珊瑚の簪を貰った。
 もちろん、名誉のために断っておくけれども、香花はあの簪をただで貰ったわけではない。これから少しずつでも時間をかけて代金は返してゆくつもりだ。
「―香花」

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