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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第4章 夜の蝶

     夜の蝶

 その日、崔明善は非番で、屋敷にいた。基本的に承旨の仕事は多忙を極める。御前会議がある度に書記の役目を果たさなければならない。他の多くの承旨がそうであるように、明善もかなりの達筆であった。
 明善はしばらく、自室の壁に掛けてある小さな軸を眺めていた。彼の好きな〝論語〟の一文を彼自身が書いたものだ。

〝子、四つを以て教う。
 文、行、忠、信。 〟
(孔子が教えてくれた四つのこと。
 読書・実践・誠実・信義)

 これは明善が好んで座右の銘としている言葉だが、自分のような者に彼の偉大な需学者の言わんとしていることが到底、理解できるはずないのだ。
 四つの中で明善自身、特に大切だと考える誠実と信義という点について、自分はもう〝論語〟の教えを語る資格など、とうの昔に失っている。
 妻を喪ってからというもの、明善はひたすら陳相成への復讐だけのために生きてきた。己れ一人の復讐を遂げるためには、たとえ何を犠牲にしても構いはしないと思いつめるほどに憎しみは深く、彼の心は恨みにどす黒く染まっている。
 実のところ、今の我が身には誠実さも信義もあるはずがないのだ。
 ひとしきり軸を眺めていた彼の耳を、賑やかな歓声が打った。
「先生、見て、見て。ほら、私の舟がいちばん速いよ」
 声にいざなわれるように、明善は室の戸を細く開き、外を覗いた。ふいに彼の瞳に一つの光景が飛び込んでくる。

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