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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第3章 【邂逅―めぐり逢いの悲劇―】

 言うなり、絢の身体はすくい上げるように男に抱え上げられていた。恐怖のあまり、絢の口から悲鳴が洩れた。
「いやっ」
 絢は右手に持っていた椿の花束を烈しく振った。野生の椿の枝は見かけは華奢に見えても、存外に強い。たとえて言うならば、しなやかな鞭のようなものだ。絢が夢中で振り回している中に、椿の枝がピシリとしなって男の頬を打った。
「ツ」
 男は一瞬の痛みに顔をしかめ、絢から手を放した。絢はその隙に男の屈強な腕から逃れ、馬から滑り降りた。
「待て」
 鋭い一喝を放ち男が吠えたが、絢は後ろを見ることもなく脱兎のように走り去った。
 男はしばらく茫然と絢の消えた方角を見つめていた。ふとその視線が地面に落ちた椿の花を捉えた。男の頬を見事なほどの鮮やかさで打ち据えた椿の花―。馬の足許には無残に白い花びらを散らした椿が数本、落ちていた。
「椿、か」
 男は何を思ったか、再び馬から下りると、地面に膝をついた。地面には白い花びらがまるで模様のように散り敷いている。男は絢の残していった椿の花びらをそっと拾い上げると、物も言わずに見つめた。
「狙うた獲物に逃げられたのは初めてのことだな」
 男が呟いたが、その端整な顔に浮かぶ表情は不機嫌というよりはむしろこの不測の事態を面白がっているように見える。
 男はフッとかすかな笑みを浮かべると、ひとひらの花片を懐に入れた。そのまま再び馬上の人となり、白馬の脇腹を蹴り駆けていった。その姿はすぐに生い茂った緑の向こうに吸い込まれ見えなくなった。後にはいつもと変わらず蒼い水を湛えた泉と咲き誇る白椿の花が残るばかり―。

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