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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第4章 運命(さだめ)―哀しい別離―

―いや、止めてえ!
 絢は泣きながら叫ぶ。助けを求める。
 でも、誰も助けには来てくれない。
―泣いても無駄だ。この私に逆らえる者はおらぬ。そなたはこの私に喰らわれる運命なのだよ。
 刹那、美しい貌が醜く歪んだ。熟れた柘榴のような唇がカッと裂ける。切れ長の双眸が異様なほどに大きく見開かれた。巨大な牙を剥きだした口で鬼は銜えていた白い花を音を立てて噛み下す。世にも耳障りな音を立てて哀れにも椿の花は鬼に喰われる。
―さあ、次はそなたの番だ。そなたが次はこの私に喰らわれるのだ。
 鬼が酷薄な微笑を刻む。牙の突き出た口がカッと大きく開き、絢に近づいてくる。
「いやっー」
 絢は叫び声を上げ、眼を覚ました。まるで長い旅から戻ってきたばかりのような気分だったが、現実にはほんの一刻ほど浅い微睡みに落ちたにすぎなかったろう。
 この館に連れてこられた日から、絢は再び悪夢にうなされるようになった。ここはこの甲斐の国を統べる武田晴信の住まう屋敷。
 森で絢を見初めたのはこの国の国主であった。晴信は稀代の戦上手と近隣諸国からも怖れられているほどの名将である。上背もあり、典雅な風貌でありながらも、けして惰弱な感じはせず、むしろ戦国武将らしい精悍さに溢れている。
 晴信はふらりと思い出したように絢の寝所を訪れるのが常だった。初めて床を共にしたのは、館に連れてこられてから十日ばかり経った夜のことである。その頃には森で晴信に射られた右脚の傷も殆ど全快していた。
 晴信お抱えの医師の手厚い処置で、絢の脚の傷は悪化もせずに治癒した。また、元々見た目よりは傷が浅く深手ではなかったことも快復が早かった理由である。晴信は絢を射る際に、わざと急所を外していたのだ。

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