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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第4章 運命(さだめ)―哀しい別離―

 この館に来てから、絢は当主の晴信について悪しき噂があることを知った。屋敷内に仕える侍女たちがひそかに噂しているのを偶然聞いてしまったのだ。
―お屋形さまは夜な夜な鬼になられて、女を喰らわれているそうな。
―流石にこのお屋敷内ではそのような悪鬼の如きご所業もおできになられぬが、夜毎にひそかに館を抜け出られ、町の若い女をさらって食べておられるというぞ。時には脚を伸ばして村まで行かれることもあるという。
―お屋形さまがあれほどの戦上手でおわすのもただ人ではないからと申す者もありますぞ。
―我らがお屋形さまは鬼じゃ。
 侍女たちはさも怖ろしげに語り合っていたが―、実際に絢もこの甲斐の国の殿さまが狂っているという噂は一度ならず耳にしたことがあった。武田晴信という武将が歴戦の戦で負け知らずなのは、ひとたび戦となれば鬼になるからだとひそかに噂されていた。もちろん現実に晴信が鬼に変化なぞするはずはない。要するに戦場での彼があたかも「鬼」が乗り移ったのかと思えるほどに生き生きと馬を操り、並み居る敵将を屠ってゆく、まさにその鬼神のごとき情け知らずの闘いぶりがそんな埒もない噂の元になっていることは間違いないのだが―。武田晴信という男はそれほどに周囲から畏怖され、また尊崇され得る男であった。
 絢に対しての晴信の態度は極めて紳士的であり穏やかであった。初めて臥所を共にした夜こそ、抗う絢を押し倒しのしかかってきたが、絢が少なくとも表面上は晴信を受け容れるようになってからは手荒に扱われることもない。

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