花鬼(はなおに)~風の墓標~
第3章 【邂逅―めぐり逢いの悲劇―】
【邂逅―めぐり逢いの悲劇―】
穏やかな陽差しが真っすぐに地面に向かって降り注いでいる。吐く息は白く大気もまだひんやりとした冬のものではあったが、陽光の明るさは季節が紛うことなく春へと近付いていることを示していた。
絢(あや)は両手をいっぱいにひろげると、思い切り深呼吸をした。胸一杯に森の香り―鬱蒼と生い茂る樹々の匂いが流れ込んできて、生まれ変わったような清々しさを憶える。絢はこの森で生まれ育った。緑の懐に抱(いだ)かれて、風が葉を揺らす音や鳥の鳴き声を子守唄代わりにして成長したのだ。
絢の父は猟師であった。元々どこかの国守に仕えていた足軽であったというが、父は自らの過去について一切語ることはなかった。ただ歩くときにはいつも右脚を軽く引きずっていて、それが戦(いくさ)での負傷が元でそうなってしまったのだと母から聞いた。母は絢が五つのときに亡くなった。元々身体が丈夫なひとではなく、男児を死産してその肥立ち良からずみまかったのである。
父は卯平と名乗っていたが、それは本名ではなかったに違いない。もっとも、とうに武士であることを捨てた父にとって、昔の名など自らの過去とともに捨て去ったようなものだった。戦で怪我をしたのを機に、卯平は刀を捨て森の奥深くに移り住み猟師となったのだ。卯平が武士であることを止めたのは何も脚の怪我だけではない。生きることに、否、正確に言えば人と人が殺し合い、人を殺すことによって逆に生き長らえる我が身に嫌気が差したからに他ならなかった。
もっとも、その他にも父が武士を止めた理由はあるらしかったけれど、それはけして絢が踏み込んではならない領域であった。父は自らの過去を固く封印して生きてきた。
穏やかな陽差しが真っすぐに地面に向かって降り注いでいる。吐く息は白く大気もまだひんやりとした冬のものではあったが、陽光の明るさは季節が紛うことなく春へと近付いていることを示していた。
絢(あや)は両手をいっぱいにひろげると、思い切り深呼吸をした。胸一杯に森の香り―鬱蒼と生い茂る樹々の匂いが流れ込んできて、生まれ変わったような清々しさを憶える。絢はこの森で生まれ育った。緑の懐に抱(いだ)かれて、風が葉を揺らす音や鳥の鳴き声を子守唄代わりにして成長したのだ。
絢の父は猟師であった。元々どこかの国守に仕えていた足軽であったというが、父は自らの過去について一切語ることはなかった。ただ歩くときにはいつも右脚を軽く引きずっていて、それが戦(いくさ)での負傷が元でそうなってしまったのだと母から聞いた。母は絢が五つのときに亡くなった。元々身体が丈夫なひとではなく、男児を死産してその肥立ち良からずみまかったのである。
父は卯平と名乗っていたが、それは本名ではなかったに違いない。もっとも、とうに武士であることを捨てた父にとって、昔の名など自らの過去とともに捨て去ったようなものだった。戦で怪我をしたのを機に、卯平は刀を捨て森の奥深くに移り住み猟師となったのだ。卯平が武士であることを止めたのは何も脚の怪我だけではない。生きることに、否、正確に言えば人と人が殺し合い、人を殺すことによって逆に生き長らえる我が身に嫌気が差したからに他ならなかった。
もっとも、その他にも父が武士を止めた理由はあるらしかったけれど、それはけして絢が踏み込んではならない領域であった。父は自らの過去を固く封印して生きてきた。