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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第4章 運命(さだめ)―哀しい別離―

 絢は真剣に晴信の許から逃げ出そうと考えていた。恐らく脱出は不成功に終わるだろう。これほど警戒の厳しい館から、いや、あの隙のない「鬼」と謳われる男から逃げ出せるはずがないのだ。ひとたび自分を裏切った者に晴信は徹底的に冷酷に対処するに違いない。
 今度こそ自分を待ち受けているものは死しかない。それでも、絢は太吉の許に帰りたかった。身体はむしろ晴信に狎れてゆくのに、心はどうしようもないほどに良人を求めていた。
―逢いたい、あのひとにひとめで良いから逢いたい。
 絢の想いは募るばかりであった。
 絢が深い吐息を洩らしたその時。
 寝間の戸がわずかに軋んだ。今宵は晴信のお召しも訪れもない夜である。絢の部屋はこの館の奧向き(当主の正室初め、女たちの住まう場所)の更に奥まった一角にあり、ふた間続きである。絢の居室は小さな庭に面しており、続きの間には侍女が控えていることが多い。
 今も隣ではお付きの侍女の楓が控えているはずであった。楓は晴信の重臣の娘らしい。主に絢の身の回りの世話をするのが務めだが、楓は本来ならば絢の方が楓に仕えるはずの立場の娘であった。しかし、二十歳になる楓は気立てもよく、絢に親身になって仕えてくれる。現在、この館で唯一、絢が心許せる存在である。
 小庭に面した障子戸がかすかにコトリと音を立てた。絢の全身に緊張が漲る。甲斐の武田晴信といえば、今、飛ぶ鳥落とす勢いの武将と目されている。何者かは判らぬが、その晴信の側室の寝間に夜半忍び込んでくるなぞ到底正気の沙汰ではできない。
 絢は絹の衾(ふすま)からそっと身を起こした。

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