花鬼(はなおに)~風の墓標~
第4章 運命(さだめ)―哀しい別離―
―そう、人間ならぬ者、わずかな情さえ持たぬ者だけ。
「あなたは鬼だわ」
絢は晴信を強い光を宿した眼で見つめた。
「人を殺めても後悔もしない、まるで虫を殺すように平然と手を下す―、あなたは生きた鬼よ」
もしかしたら、自分も晴信に斬られるのではないかと絢は咄嗟に思った。勇猛で知られる各国の戦国武将たちですら怖れる男なのだ。たかが女一人にここまで罵倒されて、怒らぬはずがない。
だが、いっそのこと晴信に殺されるのも良い。このまま晴信の想い人として慰みものにされる屈辱を受け続けるよりは、太吉の後を追えるならば、その方が幸せというものだろう。いかにしても、良人を殺した憎い仇に抱かれることなどできない。
が、晴信は刀を再び抜こうとはしなかった。無言で踵を返し、去っていった。立ち去り際、晴信がつと背後を振り返った。
刹那、絢は雷に打たれたような衝撃を受けた。晴信が一瞬見せたまなざしは、まるでこの世のすべてを見下したように醒めていた。いや、蔑みすらない、まるで感情の読み取れぬ瞳の奧にひろがるのは虚ろな闇である。今まさにこの瞬間、すべてのものを包み込む漆黒の夜であった。
それほどまでの壮絶な闇をどうしてこの男は背に負うているのか。武田晴信という武将にはとかくの噂があった。家督を継ぐに当たっては実の父武田信虎を駿河の今川義元の許に追いやった。いわば実父を強制的に隠遁させ、力づくで武田氏当主の座についたのである。また、ひとたびは和平を結んだ諏訪氏を攻め滅ぼし、敵方の大将諏訪頼重の美しい姫君を側妾として四男勝頼を生ませた。
「あなたは鬼だわ」
絢は晴信を強い光を宿した眼で見つめた。
「人を殺めても後悔もしない、まるで虫を殺すように平然と手を下す―、あなたは生きた鬼よ」
もしかしたら、自分も晴信に斬られるのではないかと絢は咄嗟に思った。勇猛で知られる各国の戦国武将たちですら怖れる男なのだ。たかが女一人にここまで罵倒されて、怒らぬはずがない。
だが、いっそのこと晴信に殺されるのも良い。このまま晴信の想い人として慰みものにされる屈辱を受け続けるよりは、太吉の後を追えるならば、その方が幸せというものだろう。いかにしても、良人を殺した憎い仇に抱かれることなどできない。
が、晴信は刀を再び抜こうとはしなかった。無言で踵を返し、去っていった。立ち去り際、晴信がつと背後を振り返った。
刹那、絢は雷に打たれたような衝撃を受けた。晴信が一瞬見せたまなざしは、まるでこの世のすべてを見下したように醒めていた。いや、蔑みすらない、まるで感情の読み取れぬ瞳の奧にひろがるのは虚ろな闇である。今まさにこの瞬間、すべてのものを包み込む漆黒の夜であった。
それほどまでの壮絶な闇をどうしてこの男は背に負うているのか。武田晴信という武将にはとかくの噂があった。家督を継ぐに当たっては実の父武田信虎を駿河の今川義元の許に追いやった。いわば実父を強制的に隠遁させ、力づくで武田氏当主の座についたのである。また、ひとたびは和平を結んだ諏訪氏を攻め滅ぼし、敵方の大将諏訪頼重の美しい姫君を側妾として四男勝頼を生ませた。