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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第5章 【花闇(はなやみ)―対決の瞬間(とき)―】

 母は隣国の武将に仕える侍大将の娘であったという。たとえ猟師の娘といえども、絢の体内には紛れもなく武門の家の血が流れている。そのことを終生忘れぬよう―、しっかり者の母はいつも幼い絢に言い聞かせていた。思えば、絢の烈しい気性は母譲りのものかもしれない。
 絢は鞘からそっと刃を抜いた。懐剣そのものは、いかにも女性が護身用に持つにふさわしく、朱塗りで蒔絵が施されている。その図柄は椿の花であった。絢はふと森の小屋に置いてきた飾り櫛のことを思った。太吉が卯平と初めて町に出た日、自らが仕留めた獲物を売って得た金で買ってくれた想い出の品である。あの櫛にも椿の意匠が施されていた。
 この館に連れてこられて以来、絢はあの櫛を持っていればと何度思ったかしれない。あの櫛は良人を偲ぶ唯一のよすがであった。だが、今から思えば、あの櫛は森の奥深い小屋に置いてきて良かったのだ。あれは良人との大切な想い出、太吉のただ一つの形見である。あそこにある限り、あの櫛が血に汚れることはない。太吉のくれた櫛は他ならぬ太吉と夫婦として幸せに過ごしたあの家にあることこそが望ましい。
 絢は懐剣をしばらく見つめていたかと思うと、力を込めて振り上げた。数日前の夜、晴信が太吉に向かって刀を構えたように、一挙に刀身を振り下ろすつもりであった。
 晴信を殺して自分も死ぬ。それが絢が最後に選んだ道であった。そのために、憎い男にも躊躇うことなく身を任せた。晴信を安心させ油断させるために、晴信の腕の中で存分に乱れ、求められれば進んで脚を開いた。

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