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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第5章 【花闇(はなやみ)―対決の瞬間(とき)―】

 晴信は絢を腕に抱いたまま続けた。
「父は私を嫌うていた。父が家督を継がせたがっていたのは弟の方でな。弟は幼いときから利発な上に素直で愛らしい―要するに誰からも愛される子どもらしい子どもだったのだ。それに引き替え、私ときたら、いつも父上に逆らうてばかり。あれでは、父に疎まれたのは致し方はない」
 まるで淡々と他人事のように話す晴信の横顔には拭いがたい孤独の翳があった。絢は息を呑んで晴信の話を聞いていた。
「だが、人の心とはげに複雑なものだ。幼い私は父に疎まれれば疎まれるほど、意地になって余計に父にたてついた。それで父の心は益々私から離れ、弟に傾いた。父の顔色ばかり窺っていた母は私に同情は示してくれたが、所詮はそれだけだ。父に逆らってまで、私を慈しんではくれず、私は武田家ではいつも除け者だった」
 晴信は重い息を吐いた。
「可愛げのない子どもはいつも誰かに愛されたいと願っていた。さりながら、醒めた眼で大人を見据え、にこりともせぬ童を大人が可愛いと思うはずがない。いつしか私は父と対立し、父は私を廃して弟を次の当主にと思案するようになっていた」
 父信虎と晴信の対立が根深いものであることは有名な話である。それは武田氏の重臣まで巻き込んでのお家騒動に発展しようとしていた。それが晴信が立ち父を駿河へ追放したことで、無用の流血を避けた上ですみやかに代変わりを実現することができたのである。
 甲斐に武田晴信ありとその名を知られ始めたのは、この頃からであった。が、人は晴信を「鬼のような息子」と評した。実の父親を欺いて追放し、家督を奪った息子を冷酷非道だとそしったのである。

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