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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第7章 第二部・風花(かざばな)・紅葉

 熊が玄武を離れた一年後、両親の間には男児が生まれたという。熊はその小さな末の弟の顔を知らない。もしかしたら、父も母ももう自分のことなぞとうに忘れて、新しい生命のことしか考えていないかもしれない。人質として他国に赴いた者は既に故国の人間にとっては死んだも同然だ。皆が自分のことを忘れてゆく―、そう考えるのは辛いことではあったけれど、運命に逆らえるすべはない。
 熊がこうして庭を眺めている最中、仁科家の人は皆声をかけたりはせず、好きなようにさせてくれる。それは熊が物想いに浸りたいからだと判っていたからだ。最初はやはり、自分が藤堂高影の血縁ではないから、家臣の屋敷に預けられたのかと思った。仮にも国主の養女としてやって来た自分にこのような扱いをするとは、高影にも玄武の国に対しても無礼だと小さな胸に憤りを感じたことは否めない。
 だが、今、熊はかえって、我が身が武田の館に留め置かれることなく、この仁科の家に託されたことを幸せだと思う。熊を他国者として人質として隔てを置くことはせず、家族として遇してくれるからこそ、熊は淋しさにも耐えることができるのだ。
 それに甲斐の領主武田信虎は戦には強いが、冷徹な男であるとの専らの噂だ。また、稀代の女好きでもあり、気に入った女は強制的にでも側女に召し上げることがしばしばだという。武田の館に住んでいれば、いやでも信虎と顔を合わせることはあるだろう。ここにいる限り、そんな男のことを考えることもなしに過ごせるのは何よりありがたい。

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