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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 武家の屋敷は表と奧に厳然と区別されている。それは何も武田氏の当主たる武田信虎が住まう館だけではない。重臣たちの屋敷だとて、当主の住まう表と女たちの住まう奧向きは分かれている。熊が表近くまで歩いてきた時、中庭の方から男たちの声が聞こえてきた。
 熊は思わず立ち止まった。耳を澄ませてみると、威勢の良いかけ声が響いてくる。何か武芸の鍛錬をしているのか、小気味の良い声が揃って聞こえてくるのに、熊は吸い寄せられるようにして近づいた。
 誤解のないように言っておくが、この時、熊はけして盗み見をするつもりはなかった。ただ、見かけは可憐な美少女である熊も玄武にいる頃は「高橋のお転婆姫」と専らの評判で、庭の樹に昇ってはよく父に叱られていたものだった。長刀や剣術も父に習って少々なら心得がある。ゆえに、男たちが何の練習をしているのか確かめてみたいという好奇心があり、誘惑には勝てなかったのだ。
 熊は近くまで歩いてゆくと、物陰に隠れた。中庭で男たちが一斉にかけ声も勇ましく木刀を振るっていた。十人はいる男たちは皆片肌脱いで上半身裸である。
 中でも左端にいる男は皆よりひときわ屈強な身体つきをしており、身の丈も愕くほど高い。陽に灼けた浅黒い肌が汗で濡れていた。どうやらこの男は右脚が少々不自由と見え、前に踏み出す度に身体が不安定に前後に揺れていた。彼等を靖政の長男康一郎(こういちろう)が監督している。

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