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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 それを見ていた康一郎がハッとした表情をした。康一郎の顔が見る間に朱に染まった。その表情は苦悶と怒りに燃えていた。康一郎は思慮深い靖政とは違い、どちらかといえば短気直情だ。曲がったことは大嫌いで、特に弱い者虐めを嫌う。仁科家嫡男であり、歳は熊よりは十近く上で既に妻子もいる。気性のはっきりとした熊とは気も合い、熊にとっては頼もしい兄代わりであった。
 突然、康一郎が真っ赤な顔で言った。
「畏れながら、お屋形さまに申し上げまする」
―この男がお屋形さま―。
 熊は茫然とした。罪もなき小者を平然と足蹴にしているこの冷徹そのものの男が武田家の当主信虎だというのか。信虎の冷酷さは聞いてはいたものの、まさかこれほどとは考えていなかっただけに、熊にとっては衝撃だった。
 傍らから父の靖政が顔色を変えて一喝した。
「控えよ、靖政」
 噂によれば、信虎に逆らった者はたとえ信厚い重臣だとて無事で済んだ試しはないという。それは重臣の嫡男だとて変わらないだろう。
 案の定、信虎がキッとした顔で康一郎を見た。
「康一郎はこの俺に何ぞ物申したき様子じゃの」
 信虎は己れにたてつく者に容赦はしない。このまま康一郎がとどまらねば、信虎の怒りに触れることは必定であった。

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