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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 熊はそれ以上見ていられず、咄嗟に叫んでいた。
「お屋形さま」
 熊はまろぶように庭に降りると、信虎の前に両手をつかえた。急に立ち現れた女に何事かと一同が顔を見合わせる。
 熊は頭を地面にこすりつけた。
「お初にお目にかかることが叶い、恐悦至極に存じまする。私は玄武の国が領主藤堂高影が娘熊と申します」
「―熊とな」
 短い沈黙があった。
「そう申せば、靖政は藤堂の養女を養うておるのであったな。もう二年も前のことゆえ、忘れておった」
 何とも無責任というか、藤堂家を引いては玄武の国を軽んじた物言いであった。仮にも養女の格式で人質として寄越された熊の存在すら忘れていたとは。要するに、熊は人質としての価値もないと判断されていたのだ。この靖政の屋敷に身柄を預けられたときに判っていたはずのことなのに、熊はあまりの屈辱に唇を噛んだ。
 しかし、今ここで信虎の機嫌をこれ以上損じることはできない。熊のか細い肩には玄武国の命運がかかっている。それに、何よりこの仁科家には恩義がある。人質として来た熊を家族同然に慈しんでくれた靖政や康一郎のためにも。

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