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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 視線を熊に戻した信虎の眼が一瞬光った。
「女にしておくのは惜しい。だが、俺も皆の手前、このままで済ませるわけにはゆかぬ。熊、もし、そなたがこの俺の申すことを必ず一つきくというのなら、そこの下郎の生命は助けよう」
「―承知つかまつりました」
 熊は再び手をついて応えた。
「お待ち下さりませ。お屋形さま」
 靖政が取りなそうと何か言おうとするのに、信虎が断じた。
「靖政、この話は俺と熊の間で取り決めたことじゃ。たとえ、熊の預かり親のそちとて、仲立ちは無用」
「は」
 靖政はそれ以上何も言えず、頭を下げるしかない。
 信虎は熊を一瞥すると、背を向けた。
 その一瞬に見せたまなざしに、熊は愕然とした。まるで氷の針を含んだような冷ややかな視線は心まで凍らせるようであった。
 信虎が去った後も、熊はその場に立ち尽くしていた。晩秋とはいえ、温かな小春日和の昼下がりである。だが、熊は身体中に冷や汗をかいていた。
 信虎に無情にも足蹴にされた若者―堀田伝次郎は打ち所が悪かったのか、地面に転がったまま微動だにしない。朋輩の男たちが伝次郎の回りを囲んでしきりに何やら言い合っているようだったが、熊はボウとして立ち尽くしていた。

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