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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 その日を境として、熊の心に伝次郎の面影が強く刻み込まれた。だが、小者にすぎない伝次郎と熊が逢う機会はなかった。伝次郎に逢いたいという気持ちが募るばかりで日は空しく過ぎ、そんなある日、熊は武田信虎の館に呼ばれた。いや、正確には信虎というよりはその妻勝子に呼ばれたのである。
 きらびやかな小袖に打掛けをまとった熊はいつもにもまして美しかった。鶯色の地に流水と紅葉が描かれた打掛はけして派手ではないが、かえって十五歳という熊の若さを引き立てている。奧向きの更に奥まった一室に通され、更に半刻ほど待たされた。小座敷の襖には降り積もる雪の中に咲く真紅の椿が極彩色で描かれている。熊がボウとした視線を襖に向けていた時、音もなく開き一人の女人が打掛の裾を引いて現れた。
 その出自から「大井のおん方」と呼ばれる信虎の正室勝子である。勝子はその名には似合わず、おとなしやかな女性として知られていた。良人の信虎によく仕える賢夫人として武田家中からも尊崇を受けている。
 二十七の信虎より三つ年下というから、二十四になるはずだ。信虎との間に嫡男勝千代を初め数人の子に恵まれている。後の武田晴信(信玄)はこの時、七歳であった。勝子は上座から平伏する熊をじっと見つめた。

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