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花鬼(はなおに)~風の墓標~

第8章 【浮寝鳥(うきねどり)】

 ただ、そうなるべき瞬間(とき)が来た―それだけのことなのかもしれない。遅かれ早かれ、自分は信虎の側女とならなければならなかったのだろう。そして、いずれは信虎の血を引く子を生み、玄武と甲斐の国の絆を更に確かなものにするための礎とならねばならないのだ。
 判っていたはずだ。最初から、自分にはこうなる道が待っていたのだ。なのに、どうして、こんなに哀しいのだろうか。涙が止まらないのだろうか。信虎に―あの蛇のような冷たい眼をした男に触れられると考えただけで、怖ろしさと厭わしさに叫び出しくなる。
 熊の眼に一人の男の面影が浮かんだ。
 熊が心に想う男はこの世でただ一人、あの男だけであった。無骨だけれど、優しい心根を持つあの男。まだほんの少ししかあの男のことを知らないのに、ずっと一緒にいたような気持ちになる。いや、これからもずっと一緒にいたい、あの穏やかな眼をした男の側にいて、ずっとずっと同じ刻を過ごしてゆきたい。
 熊は懐をそっと押さえた。眠るときでさえ、肌身離さぬ懐剣は母から譲り受けたものだ。
―もし生きて辱めを受けるようなときが来れば、潔く死になさい。
 母がこの懐剣に込めた無言の言葉が今は心に痛い。今、熊が何よりも望むものは生であった。絶望の中で死を選ぶよりは、わずかな希望に賭けて愛する男と共に生きてゆくことを選びたい。

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