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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第6章 光と陽だまりの章③

 わずかな静寂があった。
 唐突に背筋まで凍りつくような冷酷な声が静寂を突き破った。
「お前は息をするようにすらすらと嘘をつくんだな。美月がそんな性悪女だとは流石にこの俺も考えてもみなかった」
 晃司がふいに助手席のシートを後ろに倒した。美月の身体は乱暴にシートに押し倒され、即座に晃司がその上に覆い被さってきた。
「何をするの! いやっ、止めて」
 美月が両手を振り回して烈しく抵抗すると、突如として右頬に鋭い痛みを感じた。殴られたのだと気づいたのは、少し時を経た後のことだ。
 四ヵ月前にH市の温泉宿で美月を手籠めにしたときでさえ、晃司は一切暴力をふるおうとはしなかった。どれほど閨で美月を容赦なく責め立てても、手を挙げたことはなかったのだ。あの時、破瓜の痛みを泣いて訴える美月の髪を撫で、満更口先だけではないと思える労りの言葉を優しく耳許で囁きさえした。
 それが今、美月が思いどおりにならぬことに腹を立てた晃司は美月を殴った。その粗暴さ、荒々しさは男の烈しい怒りと妬心を物語っていた。
 執着しているからこそ、いかにしても女の心が我が物にならないと知ったときの男の怒りは烈しい。烈しすぎる愛は時として憎悪にも変わる。凄まじいまでの晃司の怒りは、そのまま美月への愛の裏返しであった。
 日本を代表する一流企業のトップに立ち、〝実業界のプリンス〟とまでいわれた御曹司は、恋多き男として知られてきた。実際、彼が関係を持った女は夜空を飾る星よりも多く、一夜限りの情事など一つ一つ数え上げていては枚挙にいとまがなかった。
 それほどに多くの女と夜を過ごし、世間のありとあらゆる女たちからの熱い視線を集めながらも、彼の心の琴線に触れ、その心を掴んだ女はいなかった。
 なのに、どういう運命の悪戯か、晃司は、これまで異性と付き合ったことすらない―、どちらかといえば見向きもされなかった美月に心奪われてしまった。これまで、どんなに素晴らしい美貌や才知を持った女性たちでさえついに落とせなかった〝氷のプリンス〟と異名を取った男を美月はあっさりと陥落させたのである。

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