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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

☆♯03 SceneⅢ(SeaSide~海辺にて~)☆

 そんなある日のことだった。前触れもなく、晃司がマンションに立ち寄ったのである。
 八月も最後の残暑の厳しい朝、晃司は突如として現れ、美月に言った。
「海に行かないか」
 朝飯は要らないと手を振り、美月の淹れたコーヒーをブラックで飲んだ後、唐突に男は言い出した。
 美月は、すぐには応えられなかった。彼女の見せたそのわずかな沈黙には、あからさまな逡巡が見えた。断りたいのはむろんだったけれど、晃司がさっとその整った面を翳らせたのを目の当たりにすると、人の好い美月はもう何も言えなかった。元々、優しい娘なのだ。
 その日の晃司は常と異なり、随分と神妙というか、いつもの傲慢さは微塵もなかった。まるで卒業判定試験の結果をひたすら待つ学生のように、美月の顔を窺う男を前にして、美月は〝行きたくない〟とはどうしても言えなかった。
 戸惑う美月に、晃司はこうも言った。
「美月が行きたくないのなら、無理しなくても良い」
 その漆黒の瞳は哀しみを湛えている。すべてを諦めたような口調には深い落胆が滲んでいた。だから、美月は、迂闊にも気付かなかったのだ。いつしか男が自分を〝君〟と呼ばず、〝美月〟といかにも馴れ馴れしげに呼び捨てていることに。
 幾ら何でも、常識から考えれば、想いを寄せる女性をデートに誘うのに失敗して意気消沈しているはずの男がこんな風に急に親しげに〝美月〟と名を呼び始めるはずもないのに―。
 晃司が美月を連れていったのは、K町から更に隣のC町を隔てたE町の外れにある海岸であった。
 晃司は英語、フランス語、中国語、韓国語、イタリア語という何と五ヵ国語を自在に操るといわれている。英検は一級に合格し、慶応義塾高校三年のときに面白半分に受験した東大文科Ⅰ類は難なく合格したという逸話は、社内でも半ば伝説と化していた。
 語学に堪能なだけではなく、スポーツにも優れた才能を示すという噂は、あながち嘘ではなかったらしい。

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