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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第4章 光と陽だまりの章

 かつては自分よりも背の低かった教え子に〝女の子〟と言われたことが美月にはくすぐったかった。
「私なら大丈夫だから、心配しないで」
 美月はできるだけ明るい笑顔をこしらえて、元気よく言った。
「駄目だよ、そういうわけにはいかない」
 勇一は幾ら言っても、これだけは引くつもりがないようだ。
 こういう見かけによらず、頑固なところも変わらない。美月はやむなく正直に実状を打ち明けるに至った。
「でも、いくら金田君が送ってくれるって言っても、本当に駄目なのよ。私には今、帰る家がないんだもの」
 今度は、美月がこの五年の間に起こった出来事を話す番になった。
 短大を卒業して、〝K&G〟ホールディングスに就職したこと、三年前に父が経営していた工場を閉めたことから、その一年後に両親が自動車事故に遭い亡くなってしまったことまでを淡々と話した。
「へえ、そんなことがあったのか。先生も色々と大変だったんだな。俺なんか、まだ離れてても、お袋は元気にやってるから」
 勇一は思いがけぬ打ち明け話に愕きを隠せないようだった。だが、どうしても美月は勇一に一つだけ言えないことがあった。
 それは言わずと知れた押口晃司との結婚であった。勇一のように真っすぐで裏表のない男には、晃司と取り交わした〝契約〟なぞ到底理解できない話に相違ない。
 それに、そんな馬鹿げた話にうかうかと乗る自身を勇一がどう思うか―金のためなら何でもやってのける女とさぞ軽蔑されるだろうと考えると、どうしても言えなかった。
 美月は服の上から左手首の傷を押さえる。病院にいる間、美月は顔見知りになった若い看護婦に頼んで、病院の売店で必要なものを買ってきて貰った。その中には洗面用具とか日常の細々したものの他に、Tシャツとスウェット地のハーフパンツも入っていたのだ。
 最初、看護婦は美月の頼みに怪訝そうな表情を返してきた。晃司が用意したと思われる絹のパジャマが数枚、部屋のクローゼットにしまってあったから、日常着は必要ないと思ったのだろう。だが、美月はパジャマばかり着ていては、気分まで滅入ってしまうのだと笑ってごまかしておいた。そのときには、既に逃亡を決意していたのだ。

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