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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

第1章  出逢い

 萌は思いきり盛大な溜息をつく。急な雨で咄嗟に駆け込んだ軒先で、つい物想いに耽ってしまった。改めて背後を振り返る。そこが何なのかろくに確かめもしないで飛び込んだのだ。
 煉瓦造りのちょっとお洒落な建物には蔦が絡んでいて、童話か何かに出てくるような雰囲気だ。その正面に小さな立て看板があって、〝樋口写真館〟と記されている。
 この建物の前は、しょっちゅう通る。どこか周囲のビルとはアンバランスな印象を受けてしまうが、萌はこのノスタルジックな小さな建物が嫌いではなかった。むしろ、良い意味で気になっていたといえる。
 が、この建物が写真館だったとは、ついぞ知らなかった。ここは萌の自宅から少しだけ離れている。夫がいつも利用する私鉄線の最寄り駅近くに位置する。萌が暮らすR市は、そこそこ発展している地方都市で、R駅周辺はオフィスの入ったビルが目立つ。写真館はその一角にひっそりと建っているのだ。
 現に、萌が今立っている場所から、大通りを挟んで林立する高層ビルが見える。忙しなさそうに萌の前を行き交う人々は、萌などには眼もくれない。萌は一瞬、自分と周囲の世界がガラスの壁で隔てられているような錯覚を憶えた。誰もが当人以外の存在には関心も示さず、ただ憑かれたように前方だけを見て足早に通り過ぎてゆく。
 中には突然降り出した雨に悲鳴を上げながら、それでも嬉しげに手を繋ぎ二人で駆け抜けてゆく若いカップルもいる。
 いずれにしても、萌だけがこの広い世界の誰からも何者からも見放されているような―そんな気分になった。
 家に帰れば、自分には夫も二人の娘もいるのだからと、半ば言い訳のように自分に言い聞かせてみる。それでも、まるで砂を噛んだような味気なさと、心が空っぽになったような寂寥感は止めようがない。
 狭い舗道沿いに縦長のフラワーポットが一つ、ぽつんと忘れ去られたように置かれている。純白の紫陽花が数本群れ咲いているのが、眼にも鮮やかだ。雨にしっとりと濡れた雪(ス)のように(ノウ)真っ白(クリスタル)な紫陽花は六月(ジユーン)の花嫁(ブライド)のように清楚かつ艶やかだ。紫陽花は小さな煉瓦造りの写真館同様、周囲のビル群からは浮いていたものの、このお伽話めいた建物とは実にしっくりと馴染んでいた。

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