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じぶん克服日誌

第10章 母親


小さい頃から読書が好きで、
特にミステリーに夢中になった。


それは今も変わらずで、
一時は読む気力すらなかったけど
すこし余裕ができてからはまた読むようになった。




湊かなえさんの『母性』。

ずっと気になっていたタイトルを
新たに購入した。




会い能う限り――

後ろめたい思いがあるからこそ、
大袈裟な言葉で取り繕っている――





私の家族は、おそらく余所に比べて
仲が良い方だと思う。

両親は結婚二十年を過ぎてもたびたび
二人きりでお酒を飲みに出かけているし、
ケンカもすれど連れだって買い物にも出ている。

二十歳を超えた姉は家を出ているが
家族旅行には同伴したがるし、
時間を見つけては週一で顔を見せる。

思春期のど真ん中世代の私も、
時期特有の気恥ずかしさは持っているが
母と並ぶことも父と風呂に入ることにも
強い抵抗はない。

軽度の知的障碍をもつ妹は、
年齢に比べると幼いためまだ甘えたい盛りだ。


同世代の子がいる家庭に比べると、
会話も多いのではないかと感じる。



母はよく、
私たち娘に「愛しているよ。大好きだよ」と
告げてくれる。


でも、だからと言って
実際の母の愛情が薄いとは思っていない。


どんな娘でも、
叱りつつも受け入れてくれる
良き母親だと思う。




『母性』を読んだとき、
一番初めに思ったことがこれだった。


「会い能う限り、」
なんて仰々しい言葉はないけれど、

「愛している」も「大好き」も
言葉にして言葉以上に与えてもらっている、と。




母の愛を求めているのに
与えてもらえなかった悲しみは、

一体どこへ向ければよいのだろう。




幸せとは気づきにくいもので、
大きさも種類も多様に存在するものだけど、

母の娘として生を受け
母の愛を実感できている私は、


紛れもなく「幸せ」である。




日常生活をなくした私を
変わらず愛し続けて支えてくれる母は、

「母性」に溢れた母親に違いないのだ。



読了後、そんな嬉しさを感じた。








なんだか長たらしく、
意味の不明なこと書き連ねてしまった自覚はある。



読みにくいこと、どうか大目に見ていただきたい…。

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