a faint
第48章 N-22
N’s eye
「先に行ってる」
弾むような足取りで階段を登っていく相葉の背中を見送ったのは半時(はんとき)前。
本館と並んで建つ校舎を横目に 担任から言い渡された雑務あれこれ熟(こな)して やっと解放されたのは一時間も経った頃。
特別教室棟の五階まで一気に階段を駆け上がり ダル重くなった足と 上がった息を整えながら廊下を歩く。
個人レッスン室のドアが並ぶ側と反対の窓から差し込む夕陽の眩しさに手を翳(かざ)す。
長い廊下の先を突き当たりを右に曲がると そこにはドアが二つしかなく 一つは倉庫兼用の広い楽器庫で もう一つのドアの中に相葉が居るはず。
第1レッスン室は 隣りの楽器庫との兼ね合いでかなり狭く その窮屈さのせいで大抵空室なのだけれど L字型の建物の構造上 窓から海が見え それが相葉の気に入りだった。
同じピアノ教室だったと云うのもあって 相葉のコトは随分前から知っていた。
内外有名どころのコンクールを片っ端から荒らしまくり 『モーツァルトの再臨』なんて異名を付けられる程の腕前を
「バスケやりたいんだよねー」
中学進学前にピアノからあっさり離脱したのは五年も前の話。
その相葉の姿を音楽科(ここ)で見かけた時は小躍りしたものだ。
逸(はや)る心に急(せ)いてしまう足を どうにか落ち着け 摺り足でレッスン室に近寄るのはいつもの事。
耳を澄ませば 単調なハノンの音階が繰り返し聴こえてくる。
基礎練を怠らないのは昔から変わってない。
それもそろそろ終わるだろうと思った途端 跳ねるようなタッチの『黒鍵のエチュード』が始まった。
普段は不器用で不作法な手が 超絶技巧を難無く弾きこなすのを思い浮かべながら ドアの脇の壁へ凭れ 暫(しば)し聴き入る。
2分14秒を弾き終わった今、首をコキコキ曲げ 肩をグルグル回し 呆けているはず。
その無防備な一瞬の隙を縫って レッスン室へ忍び込む。
薄荷の匂いで満たされた空間に 仄暗さを纏(まと)う夕陽に照らされた横顔。
さっきのとは打って変わり 静かで滑らかなイントロが流れ出す。
『別れの曲』は相葉が得意としつつも 滅多に披露しない曲。
俺だけが知っている相葉の真骨頂。
巧みに音を織りなす指と 自分の短い指と見比べ 早くそれ同士を絡め キスしたいと切に思った。
春は名のみの 薄暮な時間。