a faint
第36章 A-20
A’s eye
こっちを見たその目のがピクとして 普段はほんの少し垂れ気味な眦(まなじり)が 一瞬で吊り上がった。
南向きの日当たりの良い縁側 兼 廊下の西の突き当たりを 曲がった奥にある便所。
そこから出て 軒下の吊り手水で洗って濡れた指先の水滴を ピッピと弾きながら 欠伸一つ 二つ 噛み殺す。
肌蹴た胸元の合わせから手を突っ込み 徐ろにボシボシ掻きだした途端
「先生!」
廊下をドドドと走る足音と 凄まじい怒号が一緒くたになって こっちへ迫ってきた。
「……和也さん?!」
”さん”付けで呼んだもンだから 目の前に大接近した目尻の角度は更に鋭く上がって
「和也さん…さん?……この口が まだ云うか」
オマケに頬っぺたまで 左右に引っ張られ 凄(すご)まれた。
歳上…と云っても半年先に産まれただけ の俺から ”さん”付けされるのは 甚だ心外らしい。
俺にしてみれば 神田の古書街で五本の指に入り 大学の偉い教授や 皇室関係者とかが足繁く通う古本屋…の 次男坊だったか三男坊…で 帝大の院生 強いては我が家のマネジメントやら ハウスキーピング その他諸々を一手に掌握…もとい 一切合切引き受けてくれてる有能さや なんやかやを 讃(たた)えての ”さん” 付けなのに
「……分かってないなぁ」
小さく独り言ちると
「分かってないのは 先生です」
ビシッと指さされてしまう。
「翻訳された作品、貰った賞は 数知れず……流行作家に名を連ねて早数年…なのに…なのに…」
顳顬(こめかみ)を抑え
「……このだらしない格好」
ズイと間合いを詰められ 距離感ゼロにたじろいで後退りしたものの 掃除の行き届いた床に足を滑らせ ストンとついた尻餅。
みっともなく開いた両足に絡む寝間着の裾を ダンッと踏みつけられ 前にも後ろにも 逃げたくとも身動き出来ず。
正に万事休すで えへらえへら笑うしかない。
「えと……か、和也…さ」
おどろおどろしげな暗雲漂うオーラを背負った和也さんの怒髪が天を衝いた。